雑記

mixi内でかいていた日記&コメント(一部改訂)をうつしました(05.03.03)
別にたいしたことはないんですが書きたくなったからてきとーに書きます。

今日はバイトのあと、高校のときの部活の友達と会った。
はじめて風風亭にいった。予想してたよりはおいしかった。
うちの部活(体操部)は新体操と器械体操にわかれててて、私は新体操だったんだけど、今日会ったのは新の3人。仲良しというか、あーいうのこそ、「仲間」だと思う。5年間ずっと一緒にやってきて、リアルに辛苦をともにしてきたので、彼女らの良い所も悪い所もすべてを受け容れられるし、信頼できる。こういう関係はそう築けないものだと思うので、これからも大切にしていきたいです。

それでその3人と春休みに旅行に行こうと言ってて、今日はそれの打ち合わせって名目だったんだけど、肝心の旅行日程が合わず。3月の連休に無理やり1泊2日で近場に遊びにいくことにした。きっと箱根か日光。たのしみだな〜

春休みは、ほとんどバイトと観劇に費やされそうです。週2のペースで、本当に破産寸前。旅行どころではない。
でも母親と北海道に行く予定を立てました。初夜行列車、うれしいなぁ!
北斗星…ロマンティック☆

観劇…ある方も言ってましたが、観劇の金銭苦はまったく苦になりません。だって観たいんだもん。お金なくて困ることより、観れなくて悔しい思いをするほうが百倍いやですね。あと舞台は基本的に生で観ないと意味が無い。行ったことない劇場や街にいくのも楽しいしね。劇場は本当に地域の文化振興の拠点になりますから、もっともっとより良いあり方を求めていかなければね。
今年の初夏に吉祥寺に“吉祥寺シアター”ができるんですよ。これで行ってみたかった(1回ちょっと行っただけ)吉祥寺にも足繁く通うことになりそうです。知り合いが働くみたいだし。こけらおとしはニブロールだのケラマップだの豪華です。たのしみだ!!

今日「身体の零度」を読み終えました。図書館で借りたから、要所をメモってる途中です。身体の近代化についての話なんですが、とっても面白い。大学の先生もそりゃあ薦めるわ。なんにでも通ずる事柄ですからね。文脈もまぁまぁ平易でわかりやすいし、それでいてすごくしっかり考察されています。
前半はふ〜んって感じで読みすすめてたけど、3章「表情」あたりからが面白かった。笑いにおける近代、とか。笑いってすごい深いよね。多分この本では端緒しか語ってないと思うんだけど。ここ最近の気になるワードだったので、これからもっと色々しれたらうれしいな。
最終章で舞踊についても軽く触れるんですが、一番印象に残ってるのは、民族舞踊と舞台芸術のダンスの違いは、その身体性がまったく異種のものだから、ということ。個人的身体と均質な身体。目からうろこだった。あとキリアン⇔ピナバウシュってのもわかりやすくてよい。ちなみに私はキリアンやフォーサイスがものすごい好きです。ピナは、10年前を生で観たかったなぁ。

著者の三浦雅士は「ダンスマガジン」の編集長。「ユリイカ」「現代思想」の編集長を経て、現職についたそうな。
『舞踊は近代によってもたらされた身体の零度に根ざす総合芸術、いや、芸術以上のものになってきたのである。(中略)精神と身体のすべてを考える場に変容したのである。』
本当にそう思う。もう、ダンス左翼になりそうだ(?)

『この身体の新しい地平は二十一世紀へ向かって大きくひろがっているが、しかし、それをめぐる考察はいまはじまったばかりなのである。』

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2005年02月03日
06:26


ダンス左翼(笑)!

2005年02月03日
07:05


「身体の零度」は面白いよねー。早稲田のテーマカレッジにも有って、今年度受けてたんだけど、いまいち盛り上がらなかったゼミで残念。

2005年02月03日
21:56
canon

>Sさん
言ってることがあぶなくなってきたらつっこんでください(笑)

>Eさん
テーマカレッジって身体関連多いですよねー。私も来年度はとりたいです。とりあえず夏の演劇WSに通るかどうかが心配です。。

2005年02月04日
00:53


いえいえ、ダンス左翼、すんごくいい造語、canon さん、どうぞ大事に使ってください。そこには西洋の根底にあるキリスト教の謎への示唆を感じます。そう、西洋文明の謎は、たいていはキリスト教の謎と関連をもっていますね。

たとえば民主主義を究極的に徹底させれば(見かけ上対立する)共産主義に至るし、またおなじように(いわば)マリアから生まれた自由主義は、しかし民主主義とは非和解的。モダニズムとはすなわち前衛主義だったわけだし、左翼運動の友だった。そして前衛芸術を擁護し、推進してきたのはユダヤ教徒たちだった。

だから、ユダヤ人がイスラエル問題にかかりっきりになりはじめた1968年から、前衛運動は失速した。あぁ、いまおもえばユダヤ教徒は、祖国をもたず、言葉ー芸術といった不可視の観念だけが「祖国」だった。

ダンス左翼、その言葉を、ぼくは大好き。ぼくにも使わせてください、ちゃんとcanon さんの造語と断って使いますから。めんどくさい書き込み、ごめんなさい。てきとうに流して。


2005年02月04日
11:50
canon

キリスト教に関しては、宗教学でどれだけキリスト教が大きな影響力を持ってるかってことが改めてわかって、ふーむ。。と思いました。キリスト教自体に矛盾を感じてしまう(一応、プロテスタントの高校を出ているのでなんとなくの知識はある、はず)のですよねー。宗教学は客観的だから面白いです。戦争をすすめてる大統領が、敬虔なキリスト教信者によって支えられてる現状とか、なんだかなぁと思います。
ダンス左翼は、つくった本人が適当にいってますからどうとでもお好きにどうぞ(^o^)

2005年02月04日
12:09


ときどきクラシック・バレエのレッスンを窓ごしに見ることがあって、そのときぼくが驚くことは、あぁ、ショパンでちゃんと踊れるんだなぁ、ということです。

そもそもぼくは驚きます、西洋人が近代に於いて、(メトロノームと記譜法に拠って)よくもまぁ、あんなにもリズムを定量化し、伸び縮みの少ない規則的なリズムに、音楽を形成していったものだ、と。しかも、その音楽で、ダンスがのびやかに生まれ育っている、そのことにぼくは不思議な異文化を感じます。

そしてぼくは<定量化><コントロール>・・・といった観点をキーに、クラッシック・バレエからコンテンポラリー・ダンス(のなかのある系統)に、連続性が見えてくるかもしれないなぁ・・・などと、(ぼくはほんとうにバレエ知らずなんですが)、おもったものでした。

canon さん、どうおもいますか?

2005年02月04日
14:05
canon

「身体の零度」では、近代化された身体=バレエ以降の身体とは、交換可能な均質な身体であるといっています。つまりバレエ誕生以降の舞台芸術の身体は、機械文明の身体と同じであり、それこそが基盤になってできあがった芸術だと。
バレエには「パ」という振り付けの単位みたいなものがあり、体の向きから顔手足すべての位置が正確に規定されていて、基本的にそれから外れることは許されません。そういった意味で、バレエは秩序だった完全形の身体表現なのです。
ですから定量化、規則化されたリズムこそバレエのための音楽であるといえます。のびやかに、優雅にみえるのはあくまでその延長にあるからだの表情に拠る(とにかく重心を引き上げ、地と逆行しようとするのです)もので、根底は規則化されているものなのです。
バレエのレッスンでは、脚の位置と体の向き、全身をくまなく反芻するようにすすめていきます。大体1時間半くらいでバーレッスンとフロアのレッスンを終え、それでやっと舞台に向けたレッスンを始めます。バレエは基礎=規則がすべてなんです。
だからそれを<脱構築>したウィリアム・フォーサイスという人はバレエ界に激震を与えました。オフバランスの多用と、身体による視覚的・空間的デザイン。それまでのバレエには絶対的な秩序がありそれに基づいた構成だったのが、彼はその秩序を解体して新しいバレエの局面を切り開いたのです。

コンテンポラリーダンスはバレエの「秩序の身体」から離れたところにあります。個人の、無秩序な身体。それをそのままさらけ出すことを舞台芸術として可能にしたのが、ピナバウシュ。ピナの登場とともに「コンテンポラリーダンス」という新しい概念が生れたのです。まぁ、コンテンポラリーダンスってそれまでのダンスにあてはまらないもの全部入れちゃった感じで、うまく整理されてないんですけどね。あと暗黒舞踏が生れてからは、その影響をうけたものも混ざっています。
コンテンポラリーダンスには、動きはもちろん曲も舞台装置も衣装にも規定がありません。だからこそポストモダンからの「パフォーマンス」の流れも汲みつつ、もはや見切れないほどの振幅をもちあわせていて、今それが逆にダンスをダンスたらしめるものとは?という問いに変わってきているのだと思います。コンテンポラリーダンスは新しい局面を迎えているのでは、と。

コンテンポラリーダンスの世界的振付家で勅使河原三郎というダンサーがいます。(ちょうど今日公演を見に行くんです!)彼がこの前うちの大学でWSを行なったのですが、そのときに最近大人気のある振付家を、「彼は全く音を聴いていない。」といったそうなんです。その辺にも流れが見えるなぁと思いました。音をどうとらえ、どう扱うかも振付家によっておそろしくそのスタンスが異なるのですね。だからこそ観る側はどうやって感じることが作者の意図に近いのか、はたまたこれはディスコミュニケーション?などど思索をめぐらすことになります。

長くなっちゃいました。論点がずれているかな?そしたらごめんなさい。ダンスと音楽の対応性がまだつかみきれていなくて。

2005年02月04日
17:34


ダンスと音楽・・・おそらく共通するステージが見えてきそうですね。そう、19世紀芸術、モダンアート、戦後の前衛芸術、そしてポストモダンといった共通の枠組みが・・・。ぼくは音楽の話をしてみます。

ドミソ、ドファラ、シレソ・・・ドミソ・・・そっとその3和音を弾くとき、あぁ、19世紀の西洋音楽の骨組みはなんてシンプルなんだろうと感じます。こんなにシンプルな枠組みのなかに、さまざまな波瀾万丈のドラマを入れ込んでいった。それが(モーツァルトを経て)ベートーヴェンからワーグナーにいたる近代音楽でした。オーケストラという仕組みは、かれらの音楽にぴったり合っています。まさに組織なのですから。近代そのものと言ってもいいでしょう。そこでは音楽家もまた「交換可能な均質な音楽家」であることが要求されました。

これに対してシェーンベルクあるいはストラヴィンスキーが一回そのルールを魅力的に解体してみせました。12音音楽(調性からの解放)、あるいはモード(さまざまな音階の活用)などと考え方の呼び名は難しそうだけれど、実はかれらの音楽は、モダンで、なおかつ官能的な魅力に富んでいました。(絵画で言えばモネを経た後の、ピカソマティスのように。あるいは建築家で言えば前期コルビュジエのように。)

戦後の現代音楽は、その前提に立ち、さらにいっそう音楽をあらゆる側面から微分し、究極的なコントロールを獲得せんと奮闘し、あげくの果てに、音楽はノイズと分かちがたい局面へ踏み込み、聴き手を失ってゆき、近現代音楽の前衛運動は、いったん終局を迎えます。1950年代〜60年代にかけてのことでした。(絵画で言えばロスコや、ポロックのように。建築で言えば、後期コルビュジエのように)

他方、20世紀音楽史はおもいもかけない展開を迎えます、ビートルズが現れて、エレクトリック・ギターをかき鳴らし、ドラムとベースに合わせて、『シー・ラヴズ・ユー』と絶叫し、ファンの絶叫とともにかれらは音楽史をもってっちゃったのです。これは作曲・演奏の分業をチャラにし、メディアを活用し、世界の聴衆を獲得してゆきました。新しい中世? ポストモダン? 身体性のとりもどし? メディア・アート? さまざまな呼び方ができるでしょう。(絵画で言えば、せいぜいアンディ・ウォーホルが健闘したでしょうか。)

いずれにせよ、音楽史は、やがてまったく別の態度と観点から、20世紀以降の歴史を記述することになるでしょう。

『身体の零度』、ぼくも読んでみます。いろんなダンスをぼくも見たくなりました。canon さん、いろいろ教えてください。ダンスの歴史と現在の諸相に、がぜん興味がわいてきました。もっともぼく自身は、ヒップホップやサンバなどの非西欧型(とばかりも言い切れませんが)なダンスをじぶんのたのしみのためにへたくそに踊る方が好きな、そんな人間ではありますが・・。


2005年02月05日
00:34
canon

今日、バイトでも音楽の話になって、ビートルズはすごいなぁっていう結論に至りました。
音楽の歴史、もっと知らなくちゃ。いろいろ教えてください!
「身体の零度」は読んで損はないはず!読みやすいです。三浦雅士かっこいいなー。
HIPHOPはきっとずーっと好きです。私が本能的に体を動かしちゃうのはやっぱりHIPHOPです!