わたしは離れたひとになりたくないと思う

mixi内でかいていた日記&コメント(一部改訂)をうつしました(05.03.03)
自分が、そしてダンスをするひと、しないひと、すきなひと、きらいなひとが、賛成でも反対でもいいから「理解」できることばでダンスと向きあいたいと思います。簡単とか難しいとかではなく。
自分のことばが、自分の感性、そして皆の感性とはなれてしまわないようにしたいです。
経験値がものをいうものさしは参考として扱うのがよいですね。
そもそも知識は直観を邪魔するものなのかなぁ。
でも知識を得ることで世界がひらけたときの感動もすきなんだよねー。

自分に素直に、そして懐疑的でいたい。

最近、あたまもからだも固まってる気がしてしょうがない。

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2005年01月30日
04:01


知ってたらしつれい。やはり、早稲田といえば、市川雅さんでしょ!行為としての肉体、その肉体にやどる精神、そこでの知の在り方、批評という行為がなりたつなら、彼の存在は、はかりしれない?と思う。土方さんに対しては、書ききれなかったことを、しきりに悔やんでいた。病は、痛い!

2005年01月30日
05:40


評論って難しいよねー。感想文とかエッセイみたいになっちゃうとアウトだし、難しい漢字ばっかり並ぶと頭痛くなるしね。

2005年01月30日
20:57


たしかに、からだ と ことば(ましてや観念!)は、そうそう相性が良くはないかもしれませんねぇ。たとえばバレエで言えば、プリエの姿勢ひとつとってみても、美しく見せるためには、長い練習が必要。また、ダンスでごく簡単なサイド・ステップだって、それをかっこよく踏むのは、巧い人。この場合、巧いというのは、おそらく、からだの各筋肉を自在に動かし、リズムをつかんで形を決め、動きの流れをつくってゆくこと。

そういったダンスする肉体の現実と、身体論が、いったいどのあたりで出逢うのか・・・興味深いです。

逆に、コンテンポラリー・ダンスなどでは、観念(=抽象)を表現するために、身体をとことん錬磨する・・・といった方向もあるようですね、ぼくはくわしくありませんが。

2005年01月30日
21:10


言葉は、昔どっかの日記にも書いたけど、伝えるために書くのなら、伝わらなくちゃ元も子もない。自分で消化してない言葉を使えば、それだけ貴方が伝えたいことは本当のそれとは乖離してくと思います。
まずは自分で「理解」できる言葉で書けばいいんじゃん、ていつも思うの。いろんな人の書く文章や喋ってるのを見て。プロの物書きはそれができる人だと思う。理解してればそれを噛み砕いてくのはできるでしょ。
そうすれば難しい言葉をいくら使おうと、その人の「書きたい」ことは「理解」できます。「知らない」言葉は調べればいいだけだから。ね。
ただ分野によっては、言葉の意味を知らないと理解できないものもあると思う。それは対象の問題だと思います。
知識。A.POPEて人の詩で、コレについて書いてあるのがあるの。暇で死にそうなときに、どうぞ。

2005年01月30日
21:38
canon

>Sさん
はじめまして。コメントありがとうございます。
市川さんの書かれた書物をちゃんと読んだことはないのですが、お名前だけは存じてます。早稲田といえば市川雅、みたいなかんじですかね?
COEの演劇研究センターでは市川雅アーカイブの構築を目指しているみたいですね。
http://www.waseda.jp/prj-21coe-enpaku/jp/course/course04_01.html
慶応の土方みたいなかんじなのかな?とりあえず次年度ではその担当の国吉先生の授業を取ろうと思ってます。

>Iさん
難しいですよねぇ。今は私は結局好みであれこれ言っているにすぎないのかもしれない。嫌いなものに対しても考えるようにはしてるんですが。
桜井圭介っているじゃないですか、彼は「評論家」を無期休業するそうです。
これからは「ダンス愛好家」としてあれこれ言うっていうスタンスらしい。うーん、そんな簡単に名のとおりに言質を明確にかえることできるのかなーと思いました。

>Sさん
「ダンスは非言語の芸術だという言葉は語りつくされた感が大いにある」と今月の美術手帖にもありましたが、これからは新しいダンス批評が求められているのかもしれませんね。今活躍?している批評家さんたちがその辺をどう捉えてるのかわからないですけど、とりあえず『古い』と思います。クリシェっていうんですか?まぁ私もかなりその枠にはまりつつあることを最近危惧してるんですけど。昨日あるダンサーさんのごく私的な日記で、評論家のせいでダンスが貴族化しちゃってるってことを書いてあって、すごいリアルでなんか非常に危機感を感じました。おしなべて舞台に立ってる人は評論家が嫌いですね(笑)なんか、媚を売らずにダンサーのことを理解している伝達者になりたいです。
コンテンポラリーダンスは(といっても「コンテンポラリーダンス」っていう言葉自体がもう飽和状態なかんじですが)もはや直接的なものであるのかもしれません。ストリートダンスはとにかくそこで見せているものがすべてですが、コンテンポラリーもそういう気があるのかもしれないですね。だからあれこれ言葉で説明しようとするとずれてきてしまう。もちろんすべてがそうとは思いませんが。

2005年01月30日
21:42
S

たしかに大きくはMさんのおっしゃるとおりなんだとおもいますが、ただし、身体〜ダンスについての(あるいは、音楽や料理などの言語外ジャンルについての)言説には、それならではの困難がつきまといます。言葉と観念の枠の<外>に、対象があるがゆえ、必然的に、それは位相の異なった「翻訳」に相成るわけですから。

そこではただひとつの正解はなく、試みだけが輝きうる・・・そういう危うい魅力があるとおもいます、ダンスを考察し、記述することには。

2005年01月30日
21:49
S

canon さん、実は、ミクシイの気まぐれで、上記のぼくのコメントは、21:38のcanon さんのコメントを読む前のコメントとあいなりました。

「ダンスは非言語の芸術だという言葉は語りつくされた」まさに同感です、そこに閉じこもることにはなんの意味もありません、もっと言葉を! もっと光を!

canon さん、ミクシイはノートのような場所だから、旅の途上の自由がありますね。もっと言葉を!

2005年01月30日
22:12
canon

やばい、話が難しくなってる!(笑)

>M
この日記を書いたとき、私のいいたいことをどの言葉と文脈で言えばちゃんと伝わるか結構悩みました。それで「ことば」という単語をつかったのですけれど。既存の単語やフレーズで説明できればいいのだけど、スージーさんもおっしゃるとおり、ダンス批評は「非言語」を「言語化」する行為、しかもその対象自体があまりにも多面的様相を呈しているため非常に把握しにくいんだな。見方自体にもう個人差があるのよね。
難しい単語や概念を駆使するしないの問題ではなく、言語化する次元が確立していないのよねー、対象的に。
学術的な意味での「言語」については、ほぼ無知なのでつっこんだこと言えませんが、ことばあそび(韻踏みとか)って言葉のモダニズムかなー、って今ぱっと思いました(笑)

>Sさん
試みだけが輝きうる…、、本当にそうかもしれません!今の評論シーン見てると、評論の仕方そのものがあやふやな感じしますねー。むしろそれが評論のあるべき姿なのかもしれないけど。評論の研究って分野はあるのかなー。
結構いつも思うんですが、圧倒的に素晴らしい作品でない限り、その評価があまりにも個人でばらばらなことがよくあるので、ダンスの良し悪しって誰にも決められることじゃないんじゃ?なんて元も子もない所に行き着くことがあります。当たり前か(笑)

2005年01月30日
22:17
canon

あぁ、今ばかみたいなテクノポップを聞きながらレスしている(すいません)ので、見当ちがいなこといってたらすみません。あとで読み返したりします。
あと、舞台を見て感想なのか批評なのかわからない文を書いてて思うことは、私は「舞台作品の批評」と「ダンスの批評」と「ダンスの感想」がごっちゃになってるなーってことですね。著名な方々はそのへんがもっとしっかりしてるのかなぁ。頭いいし…(言い訳)

2005年01月30日
23:52
M

そうねー確かに踊りとか舞台に限らず、非言語を言語化するのは、言語そのもので遊ぶ次元とはまったく違うね。なんだろ。私ジャンル外だから掴みきれないけど、言葉でないものであえてやったことをまた言葉に換言するてこと?てことはスージーさんのおっしゃるとおり翻訳ですね。てことは、でも、やっぱりだからこそ言語はしっかり掴めてないといけないですよね。でないと書けない。どちらかでなく両方に精通してないと、どちらにも通じなくなっちゃう。
私はよく、言葉から抜け出したくて違うもので表現してまた言葉で表さなきゃいけなくなって・・・てぐるぐるぐるぐるします。そんな感じなのかな。
まぁ応援してます(?)松本さん。
だから今度の日曜は楽しいことしましょう。

2005年01月31日
03:05
canon

以下レスという形をした私的メモだと思ってください。。

言葉を使えない人が、非言語を言語化するのはもちろん無理な話だが、(もしかしたら)言語化することが至極不可能に近い対象を言語化するという行為であった場合、書き手のスキルがどうこうというよりもその言語化のメソッドに焦点が行くだろう。
アウトサイダー・アート言語化、つまりロゴス化することはすることは可能だろうか?正直な話、私は難しいことだと思う。
ダンスにもそういった要素があるように思う。クラシックバレエは別ですよ、あれは「物語」だからね。モダンダンスもまだ表象というレベルで「語って」いる。ポストモダンはまぁおいといて、コンテンポラリーダンスの台頭で、ダンスって何、っていう非常に原理的な問題が露呈した。ダンスって何、っていってるパフォーマンスが「コンテンポラリーダンス」になっちゃったみたいなとこかな?今多分また新しい側面が出つつあるみたいだけど。ダンスって何→なんでもダンスじゃん→やっぱりダンスは「ダンス」じゃなきゃだめなんじゃ、みたいな…
とにかくダンスというものを言語化すること自体が非常に段階的なレベルであると思われる。あまりにもその言語性が本質的なところでは融解してきているから。

なにを捉え、なにを書くか?
・ダンサーの体→それがひきおこす官能的快感
・振付もしくは動き→物語性の有無。表象性の有無。言語解釈と非言語的動き、これは官能もしくは笑いに転じなければ「意味不明」と解釈される。無意味性を語ることは可能なのか。
・時間→動きによって分節もしくは継続される「時間の表象」としてのテクスト
・笑い、娯楽性→これを語ると感想文と同じになるから効果としてしか批評できない
・作品としての構成の良し悪し→見せ物としての建前
・空間→視覚的効果もしくは身体論(理論の表象・コンセプト)、空間論、地域論(アートマネジメント)
・衝撃度→舞踊史、もしくは常識や前提との比較
・身体の状況の社会的コードとその解釈の差異=ダンスにおけるジェンダー
・各種演出→舞台作品としての必要条件

2005年01月31日
03:10
canon

今ふと思ったが、ダンスを見て思ったことや感じたことをちがう表現媒体にしてもらうといろんな面が見えそうだ。うーんおもしろいなー。

2005年01月31日
05:13
S

国吉和子編の市川雅評論集、正確なタイトルは忘れたが、読んでみてください。紀伊国屋のアートブロックの舞踏コーナーにまだあると思う?
国吉さんの、一瞬、かいま見せるヒステリックな眼差しはステキです!最近は、多摩美でも教えているらしく、ますます元気!こわい!

2005年01月31日
10:41
canon

はい。とりあえず大学の図書館(いつまでやってるんだろう)を探ってみます!ありがとうございます!
ちなみに今読んでる、というか読もうとしてるのは三浦雅士「身体の零度」です。