チェルフィッチュ「目的地」

こまばアゴラ劇場
1時間40分。

妊娠と、猫の話。港北ニュータウンのこと(映像)。

あれだけ物議をかもしてきたあの「ダンス」もそれなりに見せられると、いかにもダンスって感じがするのであまり意味無いように思えた。それかこっちが完全に慣れちゃったか。

照明がすごい効果的で良かったんだけど、その良さって、劇的な要素を演出しているときにそれが顕著になっているきがして、この劇団の作品でそういう点を評価するのってどうなのかなと思う。


妊娠と戦争っていう、他方では「想像」でしか体験し得ないことの象徴的なものをモチーフにしていることが、今回の作品の脚本にこめた岡田さんの「思想」であるとしたら、今回はそういう意味で非常に演劇的だよなぁと思った。
別にダンスでもそういうのあるけど演劇の人のほうがそういうものを作品に込める情熱みたいのがある気がします。
やっぱり演劇っていうストーリー(チェルの場合は殆ど無いに等しいけど)にはなんらかのメッセージが入るだろうし入ってないとそう成り立たないんだろうな。ダンスは「踊り」でごまかせるから
そういう意味ではシベ少はそうじゃないとこが特殊なんだと思う。もしかして伝わってないだけかもしれないけど笑


登場人物の出はけのタイミングをみてて、キャラクターって舞台上に居ない限りその存在を忘れられがちだから、はけちゃったらあとは「想像」するしかない。そのことが非常に劇的なことだから、舞台に人なんていなくても想像で演劇は可能なんだろうなと思った。登場人物が一回も舞台に出てこない演劇作品ってどこかにあるんでしょうかね。この前の電車男は身体はないけど文字でその存在が視覚化されちゃってるからアリバイ?がある。そうじゃなくてとにかく存在を「想像」でしか意味づけられないひと。そうなると口承の登場人物として登場するしかないのかなー もっとなんか違うやり方で存在を認識させて演劇することはできないのかな。


あと、山懸さんってすごい強烈な個性もってるなって今頃になってすごい感じた


なんか考えたことそのまま吐露しちゃった。。。